お知らせ内容
12月15日 メッセージより
2024年12月15日 メッセージ「聖霊によって、神によって」
牛田匡牧師
聖書 マタイによる福音書 1章18-23節
ルカによる福音書 1章26-38節
今回は2つの福音書から、イエス様の母となった乙女マリアへの「受胎告知」のお話でした。妊娠と出産というものは、母体にとって命懸けの大仕事ですが、それが通常の結婚による妊娠・出産ではなかったとしたら、その苦労はどれほどでしょうか。2つの福音書から分かるヨセフとマリアのお話の要点は、①イエスはマリアの子、②マリアはヨセフと婚約中に妊娠した、③ヨセフはイエスの生物学的な父ではない、の3つです。婚約中にもかかわらず、ヨセフ以外の子を妊娠してしまったマリアは、たちまち村中から「汚れた罪人」として冷ややかな目で見られ、後ろ指を指される辛い境遇に陥りました。当時の女性たちの結婚年齢は、14歳頃と考えられていますから、年端もいかないマリアは「どうしてこんなことになったのか」「これからどうしたらよいだろう」と悩み、途方に暮れていたことでしょう。そのような絶望としか思えないような中で、天使が現れて「その子は聖霊によるのである」と告げました。歴史的には、恐らく未婚の少女マリアは、性暴力の被害者となるなど、予期せぬ望まない妊娠をしたのだろうと考えられます。律法違反の妊娠をしたマリアと結婚したヨセフは、共に「汚れた罪人」として村の中でも差別され、除け者にされていきました。それにもかからず、そこにこそ「神が共におられる(インマヌエル)」、その妊娠は神が働いたが故のものであり、聖霊によるものに他ならないと聖書は伝えています。「全てに見放され、絶望しかないような状況の中でも、神は決して見放さない。いや、全てから見放された絶望の状況の中にこそ、神は今ここに共におられる。今、私に働いて下さっている。私は今、神によって生かされている」……。そのようにマリアとヨセフは感じ、力付けられたのではないかと思います。
クリスマスに神が人となった。それも罪人の子としてお生まれになった。そのことが意味しているのは、そのような小さくされている人たちの現実の中にこそ、神が共におられるということであり、またそのような人間の手を介して神は働かれるということなのだと思います。神様から命を与えられて、今日も生かされている私たちは、この命をどこで、誰と共に、どのように用いていくのか、生かされて行くのか。その問いを胸にしながら、私たちはクリスマスまでの1週間を、歩み出して参ります。