お知らせ内容
12月8日 メッセージより
2024年12月8日 メッセージ「驚くべき不信仰」より
水谷憲牧師
聖書 マタイによる福音書 13章53-58節
イエス・キリストが故郷であるナザレに戻ってきた時の話。「人々は驚いて言った。『この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい…』」。「この人は」とは実際は「こいつは」といったニュアンスだったという。さらに「大工の息子」。父親の名前などどうでも良い、たかが大工の息子、というような言い方。親の仕事が何で母親が誰、兄弟は誰、など全く余計なお世話なのに。
故郷の彼らは、イエスに関する昔の記憶が邪魔をして、彼の現在の姿について素直に評価できないのだ。それは、関係が近いほど難しいのかもしれない。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われたからである(マルコ3:21)」という話もある。身内でもイエスを正しく見れないのだ。私たちも、誰かを「~の息子」「~の仕事の人」「信仰歴○○年」「年齢が○○才」といった、こちらの一方的なレッテルに頼って「ああ、あの人ね」なんて、その人を知った気になってはいないか。
いつまでも上辺だけの関係で、新しくその人と出会っていかなければ、本当に深い関係を作っていくことは出来ない。イエスに付き従っていた弟子たちでさえ、イエスが死んで復活するまで、彼を本当に理解する事は出来なかった。反対に、イエスに一度も生で出会ったことのないパウロの方が、彼をよく理解していたのかも知れない。私たちも、自分はこの人のことをこんなに知っているんだというへんな思い込みやレッテルに捕らわれず、絶えず新しい一面と出会いながら、豊かな人間関係を作っていきたい。
イエスは「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」。マルコ福音書では「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、その他は何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」。不信仰とは、人の話を聞かず、疑い深い姿勢。そこには神の国の福音も、不思議な業による神の力の証も、決して届かない。私たちも、イエスに不信仰さを驚かれないように、もしくは信仰を固く守って逆に驚いていただけるようになりたいものだ。もうすぐクリスマス。「ああ知ってるわ」「いつものあれね」などと自分の中で固まったイメージを取り除き、感動や喜びを新たにできるように備えていきたい。