お知らせ内容
3月9日 メッセージより
2025年3月9日 受難節第1主日礼拝メッセージ「つきまとう悪魔」より
水谷憲牧師
聖書 マタイによる福音書 4章 1-11節
イエスが40日の断食を終えて空腹を覚えられた時、悪魔がすかさず、親切そうに言う。「お疲れさん。お腹すいたろう。とりあえず、そのへんの石をパンに変えて、空腹を満たしなさいよ」。今も昔も子育てや教育の現場にある様々な体罰の問題。子が自分の思う通りにならないと殴ったり、「死ね」「やめてしまえ」と罵ったりする。なぜ?言葉で諭したり励ましたりするより楽なのだ。一時的にでも、石がパンになるからだ。子どもたちは傷つけられたくなくて、しぶしぶ、必死に従うのだ。しかしそんな私たちと違いイエスは「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と、悪魔の提案を却下する。
次に、悪魔はイエスを神殿の屋根の端に立たせる。「このへんで無理な努力は止めたらどうだ。失敗したって、神はあなたを支えて下さるよきっと」。そんなことは分かっている。私たちが、自分の志を完結できず失敗したとしても、神様はきっと許し、助けてくださる。だからこそ、それを確認するかのように何かを誓ってはあきらめたりする不誠実を、私たちは恐れ、避けないといけないのではないか。
さらに悪魔は、高い山から全ての国々とその繁栄振りを見せ、「ひれ伏して私を拝むなら、これを全て与えよう」とイエスに言う。イエスはそれも退けるが、実はすごく悩んだのではないか。高い山から世界の景色を見た時、彼はその繁栄を謳歌する幸せな人々と共に、その足元でうずくまり這いつくばる、不幸な人々のことも見えてしまったかもしれない。悪魔に頭を下げてでも世界を手に入れ、その人たちを何とかしたいと思ってしまったかもしれない。確かにその方がきっと、自分の理想の実現が近い。しかし自分に嘘をつき言い訳をして悪魔に魂を売り理想に近づくより、手間がかかって歩みは遅くとも、結果がなかなか出ずとも、自分や隣人たちの気持ちを大事にしていく方が、生きていてずっと気持ちいいのではないか。いくら自分の思い描くものがすぐ目の前にあったとしても、安易な誘惑に妥協することには、本当に気をつけないといけないことを思う。
最終的に悪魔は一旦離れたが、悪魔はいついかなる時にも、私たちを仲間にしよう、自分に頭を下げさせよう、自分たちの支配下に置こうと付きまとってくる。キリストのように強くない、「楽」に流されやすい私たちは、レントに限らず、誘惑する者が現れる度に「退け、サタン」と祈っていきたい。