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11月2日 召天者記念礼拝より

2025/11/03(月)

2025112日 召天者記念礼拝メッセージ「終わりから今を生きる」より

牛田匡牧師

聖書  マルコによる福音書   7章  1423

 「終わりから今を生きる」という言葉があります。この世の全ての生き物は、いつか必ず死を迎えますから、そのような「終わり」があることを意識して生きる。本当に価値のあるもののために命と時間を使う、ということだと思います。「どうせ死ぬのだから、生きる意味なんてない」と言ってしまうと、得られるものも得られず、せっかくの命がもったいないことになってしまいます。またもし命に終わりが無く、いつまでどこまでも登り続けても決して山頂に到着することのない登山だったらどうでしょうか。いつか終わりというゴールがあり、行き着く先があり、達成感を得られるはずだというまだ見ぬものへの信頼があるからこそ、頑張ることが出来るのではないかと思います。そのようなことを言いつつ、私たちの終わりのある人生において、「大切な生き方」を知っているということと、それを実践出来ているということは、必ずしもイコールではありません。

 今回のお話は、当時のユダヤ教指導者たちとイエス様との問答に続くお話でした。彼らは宗教的に清浄か不浄か、ということを重視し、先人からの言い伝えによって食事前には必ず手を洗い、その他にも市場から帰ったら、体を水に沈めたり、杯、水差し、銅の器や寝台まで洗うことを守っていたそうです。一方でイエス様の周りには「汚れた手」、つまり洗わない手で食事をする者がいましたから、それが目についたというわけです。「なぜ、あなたの弟子たちは汚れた手で食事をするのか」と尋ねられたのに対して、イエス様は「外から人に入って、人を汚すことのできるものは何もなく、人から出て来るものが人を(けが)すのである」(715)と話されました。「すべて外から人に入って来るもの(食べ物)は、人の腹に入り、そして便所に出されていくので、人を汚すことがない」が、「様々な悪はみな、人の心の中から出て来て、人を汚すのである」ということです。

 先人からの言い伝え(決まり)として、過剰とも言える演出を後生大事にして、それらを守ることができない貧しい庶民たちを汚れた存在と見なしていた彼らを、イエス様は厳しく批判されました。さて、「終わりから今を生きる」ということを意識する時、私たちは誰と共に、どのように生きることを選ぶでしょうか。「自分は清く正しく、神様に認められ、喜ばれる生き方をしているが、他の人たちはそうではない」とおごり高ぶることがないようでありたいと思います。

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