お知らせ内容
11月16日 メッセージより
2025年11月16日メッセージ「災いの意味を問う」より
牛田匡牧師
聖書 マルコによる福音書 13章 3-13節
今回のお話は、イエス様が世界の終わり、終末がやって来る時の「徴」、予兆について告げられたというお話でした。まず自分が「救い主だ」と語る扇動者が現れ、さらに戦争や地震や飢饉などが起こるが、それらは世界の終末、完成に向けての「産みの苦しみの始まりである」と言われています。また弟子たちには受難が待ち受けているとも告げられますが、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」、だから頑張りなさいと記されています。しかし、聖書を改めて読み直すと、イエス様の本意はどうも違っていそうです。
例えば「産みの苦しみ」という訳では、それらがまるで必要悪かのように誤解してしまいますが、「出産の苦しみのように大きな苦しみだ」という意味であり、戦争も民族対立も、地震も飢饉も、「様々な災害は望まなくても繰り返し起こってしまうものだ。だけれども、しかし、まだ世の終わりではない」という主張だったはずです。つまり、イエス様が本当に伝えられたことは、「扇動者や天変地異に惑わされるな。様々な苦難、災いがあるが、それらは『世の終わりの徴』ではない」ということだったのだろうと思います。私たちが生きている限り、時々に遭遇する様々な災い……。それらの意味を「聖書にこう書いてある」「イエス様がこう言われた」と言って権威づけて、人々に強要する時、それこそイエス様の名を語る偽預言者と同じになってしまっているのではないでしょうか。
聖書が一貫して表わしていることは、全ての命が尊く、大切だということです。そしてイエス様がその身をもって、その誕生から十字架上での死と復活までの生き様を通して示された「福音」とは、いつでもどこでも、たとえどんなに絶望的な状況の中にあっても、神が共におられる(インマヌエル)ということ、神があなたを見捨てることはないということです。災いの意味、苦難の意味、それらは私たち一人一人が、その人生の歩みの折々に、何度も問いかけ、問い直し、意味を紡ぎ出していくもの。そしてこれまでの過去の経験を生き直していくものです。決して他人から教え込まれたり、指示されたり、決めつけられたりするものではありません。今日、私たちの周りには目を惑わすものや、不安をかき立てるものが多くありますが、そのような中にあっても、それらに惑わされることなく、神様がどこにおられるか。誰と共におられるか。どのように生きるかということに、目と心を絶えず向けていきたいと願います。災いの意味、現実の意味は、一人一人が神様と共に歩む中で、日々に見出していくものです。





