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11月23日 メッセージより

2025/11/23(日)

20251123日メッセージ「人は外見を見るが、神は内面を見る」より

牛田匡牧師

聖書  サムエル記 上 16章  1-13

 今回のお話は、預言者サムエルが古代イスラエル民族の最初の王とされたサウル王の後継者を探しに行き、ダビデを見出したというお話です。サムエルは神から示された通り、ベツレヘムのエッサイの家を訪ね、その息子たちと会いました。しかし、神はサムエルに「容姿や背丈に捕らわれてはならない。私は彼を退ける。私は人が見るようには見ないからだ。人は目に映るところを見るが、私は心を見る」(7)と言い、次々に兄弟たちを退けます。そして最終的に選ばれたのは、当初選考の場に呼ばれてもおらず、家を離れた野で召使たちが行う仕事である羊の番をしていた8人兄弟の末っ子のダビデでした。そこには人間の価値観とは異なる、神の価値観の不思議がありました。

 さて、現代社会で暮らしている私たちはどうでしょうか。一緒に暮らしている家族や、日頃から親しく付き合っている友人たちの間では、「外見や見た目より、性格や内面の方が大事」というのは、当たり前かもしれませんが、その一方では初対面の相手に対しては、嘘か本当か「人は見た目が9割」などと言われたりもしています。それこそ初めて会って、少し会話を交わした程度では、相手が何を考えているか、どんな性格なのかを理解するのはとても難しいことです。ですから、しばしば学歴や経歴の詐称が行われるというのも、自分を相手に少しでも良く見せようという魂胆から出ていることなのではないでしょうか。しかし、聖書が示す神は決して外見の美しい神ではありませんでした。「イザヤ書」53章には「彼には見るべき麗しさも輝きもなく、望ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、痛みの人で、病を知っていた。人々から顔を背けられるほど軽蔑され、私たちも彼を尊ばなかった」(2-3)と、「苦難を受ける主のしもべ」についての預言が記されています。そしてキリスト教では、この「主のしもべ」こそイエス・キリストとして理解し、その十字架の受難を通して「神からの真の愛が示された」と理解しました。「人々から見捨てられ、見るべき麗しさも輝きも望ましい容姿もなかった」人が、神から遣わされた救い主だったというわけです。夜空が暗いほど、小さく輝く星の明かりが見えるように、苦難の中にあっても決して無くなることのない神様の存在を覚えていたいと思います。「人は外見を見るが、神は内面を見る」と言われる神と共にあって、支えられ励まされながら、私たちは今日もここから、イエス・キリストの言葉と振る舞いに従った歩みへと導かれていきます。

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