お知らせ内容
4月11日 メッセージより
2021年4月11日メッセージ「真実を見て、偽ることなく語る」より
牛田匡牧師
聖書 マタイによる福音書 28章11-15節
日本語には「百聞は一見に如かず」ということわざがある通り、誰でも事実を目にすれば、必ず理解し納得できるはずだと思っていました。しかし、今や「真実を見て、偽ることなく語る」ということ、それ自体が絶滅寸前なのかもしれません。感染者が急増している新型コロナウイルスへの対応にしても、福島第一原発事故の放射能汚染にしても、為政者たちは事実を見ても、見て見ぬふりをして偽って語っています。なぜなら「立場上、そうとしか言えない」ということでしょうか。今回の聖書のお話は、そんな「自分の立場を守るために事実を認めなかった」番兵たちの話でした。
この番兵たちは、イエスの遺体が盗み出されないように、祭司長たちの依頼によって総督から派遣されたお墓の見張りでした。そのために女性たちがやって来て、空っぽのお墓を見て、み使いと出会った時、彼らもそこに一緒にいました。しかし彼らはその後、急いで都に戻り祭司長たちに相談しました。もし遺体が無くなったということがバレたら、自分たちは処罰されると心配したのでしょう。祭司長たちは遺体がないことから「イエスが復活した」と民衆が騒ぎ出すと立場がなくなるので、兵士たちに金を与えて「『弟子たちが夜中に死体を盗んで行った』と言いなさい」と言いました。彼らもまた自分たちの保身のことしか考えていなかったわけです。番兵たちはこの後「教えられた通りにした」そうですが、「見張りの責務を怠った」ということで、やはり処罰されたのかもしれません。番兵たちは、女性たちと同じ経験をしたにもかかわらず、その復活を認めることが出来ませんでした。また祭司長たちも番兵たちの報告を聞いたにもかかわらず、やはり復活を信じることが出来ませんでした。それは彼らが、自分の立場や主義主張にこだわっていたからではないかと思います。そのために彼らは、その立場を一時的に守りこそすれ、復活のイエス様による真実の命に気付くことはありませんでした。
経済学者の安冨歩さんは、日本は「立場主義国」であると言い、多くの人は命よりも何よりも「立場」を守ろうとしていると指摘しています。日本社会には「立場のためには命すら惜しまない」という気質が何百年も昔からあり、400年前の宣教師たちが作った辞書には、「立場を守って討ち死にした」という用例が記されていた程です。復活のイエス様と出会うということ、それは「立場を守って討ち死にする」のではなく、むしろ立場を離れて、真実の命を生きるということだと思います。真実を見て、偽ることなく語るのは、なかなか難しいことです。勇気の要ることです。それは、これまでに経験したことがない自分の「立場」が脅かされることかもしれません。それでも復活のイエス様、真実の命は、そこにこそあるのではないでしょうか。私たちは今も生きて共にいてくださる神様と共に、立場ではなく命を守る歩みへと導かれて行きます。