お知らせ内容
5月30日 メッセージより
2021年5月30日 メッセージ「その軛は無理がなく、その荷は軽い」より
牛田匡牧師
聖書 マタイによる福音書 11章25-30節
この言葉は、有名な言葉ですので、ご存知の方もおられるかもしれません。イエス様が言われた「私の軛を負いなさい」とは、どういう意味でしょうか。「軛」とは、牛に鋤を牽かせたりする時に付ける農具です。牛にしてみたら、それは重荷です。にも拘らず、イエス様は「その軛を外してあげましょう」とは言われませんでした。「私の軛は負いやすく」という言葉は、「適している」とも訳せる言葉です。例えば、キャンプや登山に行く時にも、大きな荷物を背負いますが、手では長い間抱えていられないような大荷物でも、自分の背中や肩にぴったりと合ったザックを使えば、無理なく背負うことが出来ます。「私の軛は無理がなく、その荷は軽い」とは、一見とても無理そうに見える重荷でも、実際に背負ってみたら、意外と軽かった。やってみたら案外と出来た、ということなのではないかと思います。
また古代イスラエル社会における「軛」は、二頭立てだったようです。ですから、「私の軛を負いなさい」という言葉には、「あなたの隣に、あなたと共に軛を負う仲間・助け手も備えましょう」ということも含まれているとも考えられます。もちろん、私たちの隣に並んで一緒に軛を負ってくれるのは、天使や神様ではなくて人間です。しかし、そのような仲間たちの姿を通して、その仲間たちを備え、道を歩めるように整えて下さった神様の働きを、私たちは知ることが出来ます。 私たちの日々の生活の中から、軛、重荷は無くなりません。それらが「一切無くなりました」と言ったら、それはきっと嘘になると思います。しかし、一人ではとても登り切れない高い山でも、仲間と一緒ならばボチボチと歩みを進められるということがあります。勿論、途中で右往左往したり、怪我をしたり、お腹を空かせたりすることもあるかもしれません。それでも、ふと気付くと山頂に立っていたということが、実際にあるのだと思います。私たちの日々の些細なことの中に「軛を共に負うこと」はあるのではないでしょうか。
「私の軛を負いなさい。その軛は無理がなく、その荷は軽い」……。一部の人の利権のために、多くの命が軽んじられ、踏みにじられている、この狂った社会の中で、私たちは神様から命を与えられ、生かされています。私たちは自分の軛を誰かに共に負ってもらいながら、又、自分も誰かの軛を一緒に負っていきながら、今日も神様と共にあって、一歩ずつ歩んで行きます。