お知らせ内容
6月20日 メッセージより
2021年6月20日メッセージ「本当の安心・安全とは」より
牛田匡牧師
聖書 マタイによる福音書 5章21-37節
今回の聖書は、イエス様が語られた命令の言葉でした。当時、人々の間には「律法」という掟がありましたが、イエス様は「昔から『〇〇しなさい』と命じられているが、しかし、私は言っておく。『〇〇してはならない』」という形で、旧来の律法を越える新しい掟を命じられました。その内容は、例えば「人を殺すな」というだけではなく「きょうだいに腹を立てたり、馬鹿、愚か者と言ってはならない」というものや、「姦淫するな」というだけではなく「情欲を抱いて女を見てはならない」というような、大変厳しいものでした。しかし、イエス様が注目していたのは、一つ一つの掟を守るか守らないか、という形式的のことではなく、むしろ掟の本来の目的に気付いているかどうか、という点だったように思います。私たちは、すぐに「掟を守っているか、守っていないか」ばかりに目が行きます。しかし、それらはその時々に権力の都合の良いように変更されます。だからこそ、イエス様は「その律法が何のためにあるのかを考えなさい」「他人を見下している限り、律法を守ったことにはならない」と伝えられたのではないでしょうか。これらの後に続く、イエス様の命令は「自分に敵対する相手をも大切にしなさい」(5:44)であり、また「人を裁くな」(7:1)でした。
残念なことですが、私たちは自分が抑圧されているからと言って、必ずしも隣の人に共感を持って接し、相手を大切にできるというわけではありません。自分がやられた腹いせに、より弱い人をいじめる、ということもありますし、無自覚のうちに誰かの足を踏み付けながら、自分を抑圧してくる相手と闘っていることもあります。イエス様がこれらの言葉を語られた群衆たちもまた、自分たちが小さく弱くされながらも、きょうだいに向かって「馬鹿」と言い、心の中で他人の物を欲しがっていたのでしょう。全ては神様からの頂き物、預かり物です。神様からの恵みによって生かされること無しには、私たちの今日の命はありません。その原点に立ち返ることによってのみ、私たちはお互いを裁き合う生き方から、互いに大切にし合い、共に生きる生き方へと変えられて行くのだと思います。
現代を生きている私たちは、皆が加害者であると同時に被害者です。大量生産・大量消費の20世紀を経て、今や地球環境そのものが悲鳴を上げています。それぞれの人が内に抱えている傷から目を背けて、他者と自分に暴力を振るう生き方には、本当の安心安全はありません。ですが、そこから解放されることも私たちには許されています。神様から命を与えられ、全ての命を生かし合う、本当の安心安全を目指した道へと、私たちは今日もイエス様と共にあって導かれて行きます。