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12月18日 第4アドベント礼拝メッセージより

2022/12/20(火)

2022年1218日 第4アドベント礼拝メッセージ「インマヌエル 今、現れる」より

岡嶋千宙伝道師

聖書 イザヤ書 7章1-16節

 「おとめが身ごもり男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(7:14)。マタイ福音書の著者は、この言葉を、パレスチナの小都市ナザレに生まれたイエスという人物についての預言であると理解した。キリスト教会では当たり前とされている解釈。けれど、聖書は神の生ける言葉であり、一つの解釈、一つの理解、一つの捉え方に固定されるものではない。常に新しさに開かれていて、それに向き合うわたしたちは、新しい息吹を吹き込むことが求められている。

 だから、こう考えてみよう。「おとめ」と訳された言葉。それは、一人一人の「わたし」であり、「あなた」である。そして、そのおとめが身ごもり産む「男の子」とは、閉塞感に満ち、個がないがしろにされる現代の世界で、必死に生きるわたしたち一人一人が、神によって約束された新しい世界をもたらすために紡ぎだす一つの果実である、と。「『おとめ』であるなら、男性は含まれないのでは?」と思うかもしれない。でも14節を含めた本日の箇所、および、イザヤ書の他の救い主預言の記事(例11:1-10)をヘブライ語原文まで遡ると、わたしたちにとっては「当たり前」とされる「男」と「女」の境界線が容易に越えられ、交差され、そして消されていることが分かる。

 男か女かということだけではない。一人一人の「わたし」が、「あれかこれか」という思考パターンを変え、これまでの常識のもとで引かれていた分断線を捉え直していく。社会の当然、世の中の当たり前が作り出す線を引き直し、越え、消し去って、新しい世界へと通じる道を歩んでいく。福音書が伝えるイエスが歩んだのはまさしくその道。当時の社会の当然を疑い、当たり前を変え、常識から外れた存在とみなされて苦しみの中にある人々と共に生き、新しい世界を描き求め築いていった。そして、イエス自身が痛みを負い、最後には十字架での死を迎えた。そのイエスが招いている。難しいけれど、苦しいけれど、つらいけれど。それでも、一歩を踏み出す。歩み続ける。問い続ける。これでいいのか。これまで、でいいのか。この境界線が当たり前なのか。当然や常識の背後で、消されている声や命があることを忘れず、その囁きと灯火を聴いて、見つめ続けていく。一人ではなくて、隣にいるあなたと。そして、あなたとわたしの間にいる、イエスと共に。

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