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7月21日 メッセージより

2024/07/22(月)

2024年7月21日 礼拝メッセージ「全ては平和のために」より

牛田匡牧師

聖書 ローマの信徒への手紙 14章 13-23

 先週は「部落解放祈りの日礼拝」でした。日々の生活の中には、まだまだ様々な差別が根深く残っています。それぞれの差別の起源、始まりの理由はハッキリとは分からない代わりに、ハッキリしているのは「差別があった」という事実です。それこそ、初めは相手に対する「尊敬」や「畏怖」だった感情が、いつしか「恐怖」に変わってしまい、自分の身を守るために相手を差別して排斥・排除したり、抑圧したりするようになったということもあるかもしれません。

 今回の聖書の話の背景にあったのは、「何は食べても良いが、何は食べてはならない」というユダヤ教の食物に関する律法でした。恐らくそれらの食物規定は寄生虫や食中毒など、先人たちの経験に基づいて「危険な食べ物」と見なされていたのだと思います。にもかかわらず、それらの食物規定が命を守るという本来の目的を外れ、結果的に規定を守れる人と守れない人とを区別し、差別されるために用いられてしまっていました。そのような時代に「外から人に入って、人を(けが)すことのできるものは何もなく、人から出て来るものが人を汚すのである」(マルコ715)と言われたイエス様は、様々な事情から律法を守ること出来ず「罪人」と見なされていた人々から大歓迎されました。しかし、その一方で人々の習慣や考え方というものは、そう簡単には変わるものでもなく、イエス様に従って行くと言った人たちの中にも、やはり食べ物について良し悪しを言う人たちが何人もいて互いに対立していました。

 そのためにパウロは「もう互いに裁き合うのはやめましょう」(13)というこの手紙を書き送りました。「食べ物のために、きょうだいが心を痛めているなら、あなたはもはや愛に従って歩んではいません。食べ物のことで、きょうだいを滅ぼしてはなりません」(15)。何故なら「神の国」は、「何を飲んだり食べたりして、良いか悪いか」という食物規定によって区切られた安全圏の中にあるのではなく、聖霊と共にあって実現する正義と平和と喜びのある所にこそ、あるものだからです(17)。そしてパウロは、「だから、平和に役立つことや、互いを築き上げるのに役立つことを追い求めようではありませんか」(19)と言います。全てのルールや規定など、全ては平和のために、命のために、という原点に立ち返って考え直す必要がある、ということでしょう。お互いの命を大切にし合い、正義と平和と喜びの神の国を作るために、私たちはここから用いられて行きます。

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