お知らせ内容
9月8日 メッセージより
2024年9月8日メッセージ
「『従う』ということ」より
水谷憲牧師
聖書 ペトロの手紙Ⅰ 2章 11-25節
私たちにとってこの世は仮住まい、私たちは旅人。だからこそ、私たちは自らの魂に闘いを挑んでくる肉の欲を避けるべきだ、とこの手紙の著者は言う。「肉の業」という、性的な罪のイメージ以上の「神から離れた人間の本質、生まれかわっていない人間の本性、キリスト不在の人間の本性」に私たちを誘いこもうとする「肉の欲」を避け、異教徒の間で立派に生活しなさいというわけだ。私たちは、自分が意識しているかいないか、望んでいるかいないかに関わらず、クリスチャンである以上、キリスト教の生きた広告塔なのだ。私たちの行いや言葉によって、キリスト教があこがれの対象になるか、失望や軽蔑の対象になるかが分かれてゆく。襟を正し、背筋を伸ばして、気をつけないといけない。
その「立派な生活」の具体例。「人間の立てた制度に従い、統治者に服従し、召使は畏れ敬ってどんな主人でも従え」……。びっくりすることが書いてある。ただ、新約聖書時代の国家と私たちの現在知る国家との間には、根本的な相違がある。今私たちは独裁国家ではなく、民主主義国家にいる。私たちの市民としての義務は、服従ではなく共働なのだ。政治にも参加するし、時には人よりも神の声に従うべき時があることも、使徒たちは証ししている。ただ盲目的に従うのでなく、神の御心に沿って、能動的に従っていきたい。
召使と主人の関係についても、私たちは現代の状況に合わせてこの御言葉を捉え直していかないといけない。聖書の時代から長い時を経て、世界中のほとんどの国で奴隷制度は消えた。もちろん現実には、今も世界のどこかに「奴隷」はいる。しかしそれは今の世界、確実に違法なのだ。当時は合法だったのに、なぜ現在は違法なのか。神の御心が、もともと全ての命を大切にされているからだ。当時の強固な奴隷制度の中で苦しみを受け、命を奪われた人々の苦難の歴史の中で、少しずつ時代は変わり、今に至った。まさにキリストと同じ、悲しい犠牲の積み重ねによって、私たちの世界は御心に沿った正常な世界へと、少しずつ変えられてきたのだ。
私たちの世界はまだ完全ではないが、私たちは少しずつでも御心の方向へ世界を変えてゆけるのだと、この手紙を読むたびに信じ、心新たに我が生活を振り返って、それぞれがキリスト教の広告塔であるという自覚を持って、御心に従って生活してゆきたい。