お知らせ内容
11月10日 メッセージより
2024年11月10日メッセージ「目を上げて見渡せ」より
水谷憲牧師
聖書 創世記 13章 1-18節
私たちは、誰もが与えられた人生の中で別れを経験する。それはしばしば私たちに悲しみや絶望などの大きな苦痛をもたらす一方、私たちの人生に一つの区切りを付け、新たな出発へと私たちを押し出すものともなる。
今回のお話は、アブラム(後のアブラハム)が身内の些細な小競り合いを解決するため、甥のロトと別れる場面。アブラハムは、たとえ自分たちが右へ行こうと左へ行こうと、神は見捨てることなく必ず共にいて下さることを固く信じていた。その信仰はアブラハムを、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教のいずれにおいても尊敬され「イスラエル民族の父、信仰の父」と呼ばれるまでに押し上げることとなる。一方ロトは、ヨルダン川流域の低地の町に住み、ソドムとゴモラの滅亡の際に親類や家族との後味の悪い別れはあったものの、2人の娘たちと共に災いから救い出された。しかしロトはその後、自分が眠っていた際、娘たちによって子をもうけたため、生まれた子たちは「忌まわしい血の者」とされてしまう。しかし神は、その「呪われた血の子孫」すら、決して見放されなかった。神が後にそこからルツという女性を起こしたのだ。ルツはダビデの曾祖母であり、ダビデが生まれなければ、その系統はイエス・キリストへつながることはなかった。神はアブラハムはもちろん、別の道を歩んでいったロトやその子孫をも、いつもちゃんと見守り共にいてくださっていたのだ。
私たちキリスト者も、そのような数々の別れを経験し、それぞれの道を歩み、様々な困難やトラブルに出会う中にあっても、神はいつも私たちと共にいて下さるということを信じる者でなければならない。かつてエジプトを脱出した民を、神が昼は雲の柱・夜は火の柱となって導かれたように、私たちの歩む道を神はいつも導いて下さる。そう私たちキリスト者は信じていかなければならない。弱くてしょーもないこの私たちだから、いつも信仰深くいれるとは限らないが、神はロトやその子孫とも共にあったように、いつも共にいてくださる。目を上げて周りを見渡したい。私たちの回りの世界はみな神が与えて下さったもの。数々の出会いも別れも、喜びも試練もみな、神が私たちのために備えて下さったものなのだ。