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7月19日 メッセージより

2020/07/25(土)

2020年719日 聖霊降臨節第8主日礼拝

メッセージ「死から命へ」より

水谷 憲 牧師

聖書:ヨハネによる福音書 524 30

 様々な痛ましい死の知らせに、やりきれない思いがする。人気の若手俳優やネットの中傷に心痛めた若い女性の自死。ネグレクトによる幼子の死。交通事故の巻き添え死。逆恨みによる殺人。コロナ感染死。周りはもちろん、本人の無念さよ。近しい人にしてみれば「この世に神も仏もあるものか」という思いにもなろう。

 キリストも、最後は痛ましい死を遂げた。「パッション」というイエスの受難を描いた映画では、むごたらしい拷問・暴行の様子が描かれる。それを笑って行う兵士や「イエスを殺せ」と叫ぶユダヤの群衆は、人の痛みや命に対する感覚が麻痺し、誰かを袋叩きにしていじめ抜くような現代の私たちの姿とそっくり。2000年経っても人間は全く進歩していない。そうしてイエスは十字架に磔(はりつけ)にされ「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と本当に悲しそうに叫ぶ。この世の不公平な、悔しい現実を前にして「やっぱ神やら居()らん!」と人は言いたくなろう。しかしそれでも、神は心を痛めながら、私たちの様子を見て手を出したくなるのを堪えて、私たちに良くも悪くもあらゆる自由を与えて見守っておられるのだと信じたい。イエスのこの言葉は、神の御心を理解していながらも「お父さん、苦しいよ…」と神に思わず助けを求める言葉だったのだ。

 神を信じるとは、私たちが神に対して苦しみを素直にさらけ出すということでもある。作家の遠藤周作は「普通、信仰者というと、その日から疑いがすべて晴れ、安心した気持ちでいる、とあなたは思うかもしれない。しかし、そんなことはありえない。みんなと同じ迷いをやり、みんなと同じ悩みをやっているのだ。ただ、どこが違うかというと、そういう迷いや悲しみを知ってくれる存在があるのだという拠所(よりどころ)だ」と言う。私たちはイエスに批判された律法学者のように、見せかけの長い祈りをしてはいないか。批判されたファリサイ派のように、「神様、私は他の…のような者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。私は週に2度断食し、全収入の10分の1を献げています」などと傲慢(ごうまん)な祈りをしてはいないか。それは、弱さをさらけ出す真実の祈りではない。神はむしろ、遠くに立って目を上げることもできず、胸を打ちながら一言「神様、罪人の私を哀れんで下さい」と言った徴税人のざんげの方を義とされた。一言でもいい、切なるざんげや感謝の思いで語り、救いを訴える者にこそ、神は目を注がれるのだ。

 そうやって神に心底すがって精一杯生きた人は、たとえ肉体は滅んでも、イエス・キリストがそうであったように、神が永遠の命にあずからせて下さる。言葉による信仰告白など必要ない。精一杯生きた姿こそが、十分信仰を告白している。与えられた命を精一杯生きた人は、自死であろうとなかろうと、神は等しく天国に引き揚げ、永遠の命で満たして下さる。残された私たちも、はた目には無様であっても、神に正直な気持ちをぶつけ、神にすがりつつ、命を精一杯燃やしていきたい。

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