お知らせ内容
4月13日 棕梠の主日礼拝メッセージより
2025年4月13日 棕梠の主日礼拝メッセージ「救いとは何か」より
牛田匡牧師
聖書 マタイによる福音書 27章 32-56節
3月から始まった今年の「受難節」もいよいよ最後の一週間となりました。今度の金曜日が十字架にかけられる受難日、そしてそこから3日目となる次の日曜日が、キリストの復活をお祝いする「イースター」となります。反対者たちによって捕らえられ、ローマ帝国の見せしめ刑である十字架刑に処せられることになったイエス様は、十字架に架けられた後も、見張りの兵士たちからも、両隣にいた一緒に十字架にかけられた死刑囚たちからも、罵られ、馬鹿にされたとあります。そして十字架上で何時間かが過ぎた後、イエス様は最期に「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んで、息を引き取りました。目の前の人々に尽くしてきた正しい人の最期が、どうして「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という言葉なのか。それでは、あまりにも希望がないではないか、と思ってしまいます。しかし、「イエス様は神様の子だから決して絶望なんてしなかったはずだ」と言うよりも、むしろ「あのイエス様も、私たちと同じ人間として、絶望することもあった」と言う方が、私たちの隣にいてくれる存在としては、より身近に感じられるのではないでしょうか。
イエス様は、圧政や貧困、病気や障がい、偏見や差別によって苦しめられ、小さくされていた人々に、それでも命の神が共にいること、絶望の中にはいつまでも捨て置かれていないことを、その身をもって伝え、多くの人々が救われ、再び立ち上がらされました。そして、それはイエス様を十字架につけた反対者たちにとっても、「他人は救ったのに、自分は救えないのか」(42)という言葉にある通り、認めざるを得ない、明らかなことでした。
救いは、絶望とは無関係のあの世にあるのではなく、むしろ絶望の果てにあるのではないでしょうか。イエス様は自らの使命に生きるために、受難から逃れることも避けることもされませんでしたが、悩み苦しみ、最期には絶望しました。それでも神はそのイエス様を、死から引き起こされました。イエス様が十字架への道を歩まれるこの受難週、最期まで悩み苦しまれたイエス様の人間らしさに、私たちもまた自分自身を重ねることが出来るのではないかと思います。私たちは今週もまたイエス様と共にあって、たとえ苦しい道であっても、真実に向き合う勇気をもって、一歩ずつ歩みを進めて参ります。