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6月15日 メッセージより

2025/06/15(日)

2025年6月15日 教会創立記念礼拝メッセージ「重荷を負っても生きる」より

牛田匡牧師

聖書 マタイによる福音書 1125 30

 イエス様は、日々に、苦役や差別、様々な苦難という軛(くびき)を負っていた人たちに対して、「私の所に来たら、あなたたちの軛を外してあげましょう」とは、言われませんでした。なぜなら、私たちの日々の生活の中から、重荷が一切無くなる、ということはないからです。もしも「一切無くなりました」と言ったら、それは見て見ぬふりをしているだけの嘘でしょう。イエス様は「私の軛を負い、私に学びなさい~私の軛は負いやすく、私の荷は軽いから」(29-30)と言われました。この「負いやすく」という言葉は、「楽である」「心地好い」「適した」とも訳せる言葉です。例えば、自分の足のサイズと靴のサイズがぴったりと合っていたら、無理がなく楽で心地好いように、軛が自分の肩や首の形にぴったりとフィットしていたら、大きな荷物でも意外と軽々と担えることがあるのだろうと思います。また古代イスラエル社会における「軛」は、二頭立てだったようです。ですから、「私の軛を負いなさい。それはあなたに適している」という言葉には、「あなたの隣に、あなたと共に軛を負う仲間・助け手も備えましょう」ということも含まれているとも考えられます。

 重荷から目を逸らして、見て見ぬふりをするのではない。抑圧者側、他人の足を踏みつける側、権力者側に立って、自分自身に嘘をつくのでもない。イエス様のように、神様と共に、神様に助けられながら、事実に目を向けて、その荷が重くても、一歩ずつ歩みを進めていこう。なぜなら、その軛はあなたにフィットしていて、さらにまたあなたの隣には、あなたと共に軛を負う仲間がいるから……。そのようにイエス様の後に従って歩む時、私たちは重荷を負っても、なお生きていくことが出来るという奇跡、神様の働きを見せてもらえるのではないかと思います。単純に、今日よりも明日の生活が楽になり、重荷がどんどん軽くなる、というようなことは、単なる嘘だった、ということに気が付いてしまった現代です。そのような時代だからこそ、私たちは自分の肩に載っている重荷、また隣の人の肩に載っている重荷に目を向けていきたいと願います。そして、そのような重荷を負う中に共にいてくださる神様、また世の中から、価値がないと見なされて、見放されているものの中にこそ、神様の力が働くということを、認めていきたい、確かめていきたいと願います。そこにこそ、これからの時代の教会の夢があるのだと思っています。

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