お知らせ内容
6月29日 メッセージより
2025年6月29日 メッセージ「神は光、光の中を歩む」より
牛田匡牧師
聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 1章 5 - 10節
「光と闇」と聞くと、すぐに「昼と夜」や「善と悪」などを連想するかと思いますが、私たちが暮らしている世界は、そう簡単には割り切れないのが現実です。「光である神」自身には闇はないかもしれませんが、光を受ける存在である私たちは、光を受けると、同時に影も生じてしまいます。神様に従いたいと願いながらも、従いきれない自分自身も見出します。そのような弱さも足りなさも、また限界も醜さも持ったままの私たちが、神様によって用いられて、歩まされていく……。それが「神の光の中を歩む」ということなのではないかと思います。「光の中を歩む」とは、暗い部分や汚い部分、自分の弱さが一切なくなることではありません。それらがまるで存在しないかのように目を背けたり、蓋をしたりするのではなく、それらが確かに存在することを認めても、それでもなお、そのまま歩んでいけるということです。
「罪の赦し」として語られる際の「赦し」という言葉の元々の意味は、「そのまま行かせる」です。「罪からの清め/不正の清め」も、闇が光に転ずること、黒が白にひっくり返って、自分の内からすっかり黒、闇が無くなることではありません。もし、そうなったと感じられていたら、それは事実に蓋をして隠して、自身を偽っているだけのことではないでしょうか。光である神は、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)神でもあります。自身の中の弱さや汚さ、闇は、それらを隠そうとすればするほど、いつの日かそれらが誰かにバレて見つかってしまわないかと、ヒヤヒヤして、いつまで経っても安心することが出来ないのではないかと思います。むしろ、それらを含んだありのままの自分を受け入れ、認めてくれる人たちがいる、ということを信頼して、思い切って明るみに出すことで、安心して深呼吸ができるようになるのではないでしょうか。どんなに暗く、深い闇に閉ざされたように感じても、また自分自身の中に一向に明かりを見出せないように感じても、それでも光が闇に飲まれてしまうことはありません(ヨハネ1:5)。光である神が、もうすでに共にいて下さっている。そのことに信頼して、私たちは今日も割り切れないこの世界で、ありのままに、光の中を歩んで参ります。