お知らせ内容
10月5日 世界聖餐日礼拝メッセージより
2025年10月5日 世界聖餐日礼拝メッセージ「人の願いと神の願い」より
牛田匡牧師
聖書 マタイによる福音書 19章16-30節
今回のお話は、一人の金持ちの青年がイエス様の所にやって来て質問をした、というお話でした。青年は永遠の命を得るには、何をすればよいかと尋ね、それに対してイエス様は、律法を守るようにと返答されました。しかし、彼は即答しました。「それらはみな守ってきました。他にまだ何か欠けているでしょうか」。そしてイエス様は「行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい」と伝えましたが、青年はその答えに悩みつつ立ち去っていきました。このお話を読むと、「神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)というイエス様の言葉と合わせて、「モノやカネに執着していたら、天の国に入れない。それらを手放すことが大事」と読んでしまいそうになります。
しかし、この青年に欠けていたのは、財産を手放すことではなく、むしろ「誰を隣人として見ているか」という視点だったのではないかと思います。貧富の格差が激しく、貧しい者はさらに貧しく、富める者はさらに富んでいくような当時の古代イスラエル社会の中で、この金持ちの青年にとっては、イエス様の周りにいた「貧しい人々」というのは、仕事を与え賃金を与える相手、搾取の対象としてしか映っておらず、自分の「隣人」としては全く映っていなかったのではないでしょうか。隣人とは誰かが見えなくなっていること、搾取して富を得ていること、得たものを握りしめて分かち合おうとしていないこと、それらこそがこの青年に欠けていたことであり、「隣人を自分自身のように大切に」できていないことだったわけです。
人の願いは、日々の糧を得ること、健康が守られること、自分の生活が豊かになることや永遠の命が得られることであったりします。だからこそ、他者から攻撃されることを恐れて、先に排斥したり攻撃したりしようとします。一方、神の願いは、イエス様がその言葉と振る舞いで示しされたように、全ての人々が共に大切にし合う世界が実現することです。ますます視野が狭くなり、自分の周りしか見えなくなり、心にもゆとりがなくなりつつある現代において、誰かの足を踏みつけながら、「私にまだ何か欠けているでしょうか」と問うようなことがないように、隣人の存在に気付けるようでありたいと願います。そのように、心と目が開かれながら、私たちは今日もここから導かれていきます。