お知らせ内容
3月8日 メッセージより
2026年3月8日 受難節 第3主日礼拝メッセージ「あなたもキリストの一人」より
牛田匡牧師
聖書 マルコによる福音書 8章 27-33節
イエス様は弟子たちと共に、ガリラヤ湖の北、雪を戴くヘルモン山のふもとにあるフィリポ・カイサリアへと向かわれました。その道すがら、イエス様は「人々は、私のことを何者だと言っているのか」と問われます。洗礼者ヨハネやエリヤといった預言者の再来を期待する人々の声に対し、ペトロは「あなたは、メシアです」と答えました。しかし、マルコによる福音書では、イエス様はこの告白を公にすることを禁じ、直後に自らの受難を予告されます。「メシア(=キリスト=救い主)」とは本来「油注がれた者」を意味し、聖書の中では祭司や王、さらには異邦人の王でさえもそのように呼ばれました。それは神の祝福と聖別の象徴であり、本来はイエス様一人の独占的な称号ではありません。イエス様の生き様は、特定の誰かが神格化されることではなく、すべての人の、すべての命の中に神が共におられることを証しするものでした。ペトロの告白の背後には、「真理を知る一番弟子」という自負や思い上がりがあったのかもしれません。イエス様が彼を「サタン」と厳しく退けたのは、そのような選民意識や特権意識こそが、人を抑圧する悪の根源であることを見抜かれていたからではないでしょうか。
イエス様が語られた受難と復活の予告は、あらかじめ決まった「出来レース」の予知ではありません。たとえ殺されるほどの苦難があっても、決してそこで終わりにはならない、神の正義は必ず実現するという「命の神」への絶対的な信頼の表明です。自分の損得や目先の安心という「人のこと」を優先するのではなく、何ものをも神とせず、不当な支配や抑圧に抗う「神の御心」に生きること。かつてエルサルバドルのロメロ大司教は、凶弾に倒れる直前まで、内戦と貧困の中で苦しむ人々に「あなたもキリストの一人」と声をかけ続けました。今、この時も世界では戦争が続き、ドローン攻撃などの非人間的な暴力によって、顔の見えないところで尊い命が奪われています。人が人を支配し、踏みにじる現状は、決して神の御心ではありません。神から与えられた命に上下はなく、私たちの内にはキリストの命が確かに宿っています。「あなたもキリストの一人」という呼びかけを胸に、私たちは自分自身の思い上がりや「人の思い」を超え、平和を作り出す神の御心に従って、イエス・キリストの後を辿り、今日ここから歩み出していきましょう。





