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11月8日 メッセージより

2020/11/09(月)
2020年11月8日 メッセージ「業績主義から解放されて生きる」より

牛田匡牧師
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 3章1-14節

 パウロがその宣教旅行の中で、ガラテヤ地方に立ち寄った際に、その地にイエス・キリストを信じる人々の群れが出来ました。しかしその後、そのガラテヤの異邦人教会に対して、エルサレムのユダヤ人教会から「律法に定められた掟を守ることが大事だ」という教えが入り込んでいたようで、その教会に対してパウロが書き送ったのが、今回の「ガラテヤの信徒への手紙」です。パウロはまず「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にはっきり示された」と言っています。この「十字架につけられた」は、単なる過去形ではなく、現在完了の受け身形です。つまり、イエス・キリストは今もなお十字架の上につけられたまま、十字架に架けられ続けているということです。パウロには、福音書に記されている十二弟子たちのように、イエス様と一緒に旅をし、飲み食いをしたという経験はありません。彼が出会った復活のイエス様は、いつでも十字架とセットだったのでしょう。
 キリストの十字架は、人間には守り切ることのできない律法の限界、またそれによって他人を裁かずにはいられないという不完全さ、それによっては救われることがないという無力さを私たちに示し、私たちをその呪縛から贖(あがな)い出し、解放してくれるものでした。それによって、私たちは「律法を守れているから正しく、守れていなければ正しくない」「自分の方が人よりもきちんと守れているから、自分の方が優れている」というような自他に対する裁きと評価、業績主義から解放されて生きることが出来るようになりました。
 私たちの生きている世界は、今なお差別と暴力の中にあります。その中で人々は、いつ自分に暴力が振るわれるのかと常にビクビクしながら息を詰めて暮らしています。そんな私たちに聖書は語っています、「十字架につけられたままのキリストが、目の前に見えるじゃないか」……。神様の力は、世の無力な所、無価値な所、小さくされている所にこそ現われます。信仰の人アブラハムが、神に信頼して歩みを起こしたように、私たちも今それぞれが置かれている所から、一歩ずつ歩み出して行きましょう。十字架によって業績主義に終止符を打ち、そこから解放された生き方、全ての命を大切にし合う生き方へと、イエス・キリストは十字架の上から私たちを今日も招いて下さっています。

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