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3月8日メッセージより

2020/03/11(水)

202038日メッセージ「つばと泥による解放」より

牛田匡牧師

聖書 ヨハネによる福音書91(16, 2427, 35)39

 

 イエス様たちが通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた時、弟子たちは尋ねました。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」。悪いことをした罰として、障がいを持つ、病気になったり、事故に遭ったりする。そのような考え方は、当時の社会の中では当然でしたし、今でも根強く残っている考え方ではないでしょうか。しかし、イエス様はそれを明確に否定されました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。この言葉からは2つのことが分かります。一つは「生まれつき目が見えないのは、誰かの罪の結果としての罰ではない」ということ。そしてもう一つは「神様の業がこの人に現れるという積極的な意味がある」ということです。

 この「神の業がこの人に現れるためである」という翻訳は、その人の目はあたかも神様の業、癒しの奇跡のお披露目のために、わざと見えなくされているかのように読めてしまいます。しかし、私たちの命は、何かに利用されるために与えられているのでしょうか。そのような考え方は、どこか命の尊厳を無視しているようにも思えてなりません。イエス様のこの言葉は「神の業が現れることになるのである」とも訳せます。即ち、この人にも、あの人にも、全ての命の上に「神の業が現れるでしょう」と言われているわけです。

 イエス様に従い、イエス様の価値観で生きるということ。それは一見価値がないと見なされているものに価値を見い出すことです。自分の命は何かの犠牲として利用されるために意味があるのではなく、全ての命は掛け替えのない命として、神様の業が現れ、働き、意義のある人生を生きて行けるものであると信じて歩むことです。本人や両親、先祖の罪のせいで目が見えないと言われていた人に対して、イエス様はとても薬とは思えないようなつばと泥によって、そのような因果応報の縄目から解放しました。命の神から与えられている本当に大切なものに目を向けて歩むようになりました。私たちもまたそのように変えられて行きます。

 新型コロナウイルスの感染拡大が心配されますが、このような時こそ「見えない恐怖」によって疑心暗鬼になるのではなく、共にいて下さる神様、全ての命に働かれる神様からの知恵と力と導きが与えられることを祈り求めて行きましょう。

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