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3月29日 メッセージより

2020/04/04(土)

329受難節第5主日礼拝

「偉くなんて」                                                   水谷憲 牧師

聖書:マタイによる福音書 202028

 本日の聖書に出てくるのはゼベダイの子たちとその母。母はイエスの十字架上の死の際にも見守っていたので、彼女も息子たちと同様に夫を置いてイエスと旅を共にしていたのかもしれない。そしてイエスが死と復活を3度目に予告した際、彼女はたまらず息子たちを連れてイエスの前にひれ伏し、願う。「王座におつきになる時、この2人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」。いつの世も、どこであろうと、母は子の幸せを一番に願うもののようだ。しかしこのことについて、他の弟子たちが腹を立てる。彼らはこのヤコブとヨハネの母と同じ願いを自分もひそかに抱いていたからこそ、腹が立ったのだろうか。もしそうなら、彼らもまた、イエスの話を全く理解できていなかったことになる。イエスの飲もうとしている(さかずき)は「死の(さかずき)」だとイエスは何度も言っていたのに。

 イエスは言われた。「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の(しもべ)になりなさい」。私たちは、誰がこの中で偉いか、誰が一番かと競い張り合うことなどばかばかしい、ということを知っている。しかし、このイエスの言葉は私たちにも無関係ではない。私たちは誰しも、「偉くなりたい」とまでは思わずとも「みんなに認められたい、一目置かれたい」という欲はあるはずだから。私たちは自分の心にもそのような隠れた欲求があることを認めて、謙虚にこのキリストの言葉を受け取っていきたい。キリストはこの私が偉い人間でなくても、この私を大切に、愛して下さる。偉くなんてなくていい。キリストは「立派な人」どころかむしろ、世の中から見向きもされないような人々にこそ、優しく温かなまなざしを向けられた方だった。むしろ変に偉くない方がいい。

 「みんなに一目置かれたい」というひそかな欲求が心のうちにあることを認めることは、苦しいし悔しい。しかし、それがあってこそ、イエスを十字架につけてしまったのはこの私でもあるということや、イエスはこの私の罪・この私の醜い部分を私に代わって(つぐな)うために命を捨てて下さったのだということ、また、キリストはこんなしょーもない私のために命を投げ出して下さるほど、私のことを大切にして下さっているのだ、などの気付きへとつながる。様々な自分の弱さや傲慢(ごうまん)さを改めて見つめなおし、「偉くなんてなくていい」というキリストのメッセージに慰めと励ましを得つつ、レントの残された日々の歩みを進めてゆきたい。

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