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4月30日 メッセージより

2023/05/05(金)

2023430日メッセージ「共に在り、共に有る」より

岡嶋千宙伝道師

聖書 使徒言行録 24247

 復活のイエスによって新しい命を与えられた初代教会の生活を描く本日の御言葉には、「何かをする」という意味の言葉が多く用いられており、初代教会は「何かをする」共同体だった、という印象を受ける。けれど、「自己責任、生存競争、生産性」といった言葉が当然のように飛び交う時代を生きるわたしたちは、「行い」が強調され過ぎることの怖さを知っている。何かをなすこと、産み出すこと、数値に見える形で貢献することが良しとされる社会では、その反動で個々人の命、存在がないがしろにされていく。初代教会もその危うさから完全に自由ではなかった。「使徒言行録」5章には、財産を分け合うことのできなかった一組のカップルが、教会のリーダーにその事実を咎められた直後に死んだ(殺された?)、という記述が残されている。

 だとすれば、イエスを信じる共同体である教会の特徴は「何かをする」ことだけには求められない。42節と46節の「ひたすら」という言葉。行為を示す言葉が多く用いられている箇所にあって、それらに先立ち二度にわたり記されている。品詞としては、行為を示す言葉たちと同じく「動詞」なのだが、それらとは異なり、この「ひたすら」は、何かをするという行為ではなく、「こうである」という状態を示す動詞である。「ある状態に居続ける」「同じ状態に留まる」という意味。その留まっている状態、同じ状態とは、「皆一つになって」(44節)いること。ここで用いられているのは、「ある」という動詞。英語で言えばbe。「何かをする」という動作ではなく、存在を表す「ある」。さらに、46節では、「ひたすら」という言葉のあとに「心を一つにして」という表現が用いられ、単に身体的な意味だけではなく、精神的、霊的にも「共に在る」ことが伝えられている。「いる」「ある」「生きている」。一人ひとりの命と存在が大切にされ、そこにこそ価値が見いだされる共同体。イエスが求め、わたしたちに伝えた教会の姿。

 社会が求めること、みんなが求めること、それができなくて、産み出せなくて、何も貢献できなくて、できないことを咎められるのが怖くて、一緒にいられない。逃げたい。もう逃げている。そんな思いを抱くわたしたち一人ひとりに、だれも取り残すことなく、愛の内に暖かく包んでくれるイエスの言葉が響いている。「あなたが、今、生きてくれてありがとう。今、わたしと共にいてくれてありがとう」

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